数学者の思考は、ダンサーやミュージシャンと同じ
さて、ずいぶん前置きが長くなってしまったが、「環境から切り離された身体の中に浮かぶ脳みその中で閉じた思考」という誤った描像は、特に数学という営みに対する著しい誤解を育んできた。それは「数学者の思考はコンピュータの計算に似た過程で、身体とは無縁の、脳の中で閉じたプロセスである」というものである。
ここまで述べてきた通り、実際には他のあらゆる種類の思考と同様に、数学的思考も脳の中で完結するということは不可能なのであって、数学者の思考は、ダンサーやミュージシャンやあるいは日常生活を送る他のどのような人間とも同じように、環境に対して開かれている身体化されたプロセスなのである。しかし、従来の誤解を説き、数学的思考の身体化された側面を描き出してみせるのは容易ではない。
そうした中で、『数覚とは何か』は、「環境と脳とのあいだに構成されていく数学」ということを丁寧に説き起こしていく中で、数学の身体化された側面を巧妙に描き出すことに成功している刺激的な本である。
本書は、自然数(1以上の整数)という概念が、私たちの脳にとっては決して「自然」なものでない、ということの論証からはじまる。
私たちが生物として持っている「数覚」は、自然数の概念のように離散化されたものではなく、もっと連続的でアナログなものだというのだ。したがって、私たちは曖昧な計算には長けていても、正確な計算では到底コンピュータに及ばない。(一方で、コンピュータが私たちのような曖昧な計算を真似しようと思ってもなかなかできない。コンピュータは間違うのが不得意だ)脳と計算機ではそもそもの設計が違うのだ。
そこで、脳に本来備わっている「数覚」の欠陥を補い、あるいは拡張すべく構成されきたのが「自然数」という人工物だというのだ。脳内にはじめから備わっていた数の概念をモデル化したのが自然数のシステムなのではなく、脳にはない能力を外部に構成してきたものこそが「自然数」なのである。
私たちの存在とは無縁のプラトニックな世界を仮定して、そこにあらかじめあらゆる数学的対象が存在していると考える「静的」なプラトニズムに対し、本書が提示するのは、環境と脳の相互作用の中で、そのあいだに構成されていくものとしての数学という「動的」な数学観である。
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