退屈している人は、刺激を求める
「僕らの心は刺激ばかり求めている」と聞くと、「そんなことはない」と反論される方もおられます。
むしろ「刺激がなくて退屈してるくらいです」と言われるんですね。でも、僕に言わせれば、その「退屈」という感覚は、「刺激がないことを辛いと思う気持ち」とほとんど同義であるように思います。
「たまらないくらい退屈だ」というのは「刺激がほしくてたまらない」というのと、ほとんど同じ心の働きです。
というのも、「退屈している人」は、必ず刺激の強いほうを選択するからです。冷静に考えれば刺激の少ないほうを選んだほうがいいのは明らかな場面でも、わざわざ刺激の強いほうを選ぶ。それで一瞬退屈を紛らわせることはできるかもしれないけれど、次の瞬間には、心はより強い刺激を求めるようになる。
人生に退屈している人の心は、一見冷めているように見えて、むしろ心はより強い刺激を求めて燃え上がっているんです。
逆に、自分の人生を生きることに対して自然に使命感を持ち、集中力をもってそれに取り組んでいる人は、決して退屈しないし、無駄な刺激を求めません。
「引き込もり」は決して退屈しない
では、鬱で暗い気持ちに落ち込んでいる人や、引きこもりで外界からの接触を断っているような人たちはどうでしょうか。鬱や引きこもりは一見、刺激を避けているように見えます。過剰な刺激にさらされないよう、がっちりガードを固めているように見える。
しかし、そうやってガードを固めているにもかかわらず、鬱や引き込もりの人は日々、傷ついています。なぜ外界からの刺激を避けて生きているのに傷ついてしまうのか。それは、自分の内側で、外の世界からもたらされるよりもずっと強い刺激をせっせと作り出しているからです。
だから、引き込もりの人は決して退屈しないんです。なぜなら「自作自演のホラー映画を作って、それを繰り返し自分で観ているから」です。自作自演のホラー映画ですさまじい刺激を絶え間なく受けることで、自分を傷つけながら日々を過ごしている。
これは確かに悪循環なんですが、そこから抜け出すためのヒントは、外の世界には残念ながらありません。それは結局、刺激の源を自分の内側から、自分の外側に求めるだけになってしまう。悪循環から脱するためには、刺激のありかをほかへ移すのではなく、「刺激を受けている自分を本来の自分だ」と思い込んでいる、そういう<自分像>から脱却する必要があるんです。
その他の記事
【第3話】見よ、あれがユニオンズの星だ!(城繁幸) | |
現代社会を生きる者が心身を再構築するためのひとつの手法としてのアーユルヴェーダ(高城剛) | |
ワクチン接種の遅速が招く国際的な経済格差(高城剛) | |
「狂信」と「深い信仰」を分ける境界(甲野善紀) | |
ダンスのリズムがあふれる世界遺産トリニダの街(高城剛) | |
街にも国家にも栄枯盛衰があると実感する季節(高城剛) | |
この星に生きるすべての人が正解のない世界を彷徨う時代の到来(高城剛) | |
「たぶん起きない」けど「万が一がある」ときにどう備えるか(やまもといちろう) | |
人生に一発逆転はない–心の洗濯のススメ(名越康文) | |
ようこそ、あたらしい体験「サウンドメディテーション」へ(高城剛) | |
問題企業「DHC社」が開く、新時代のネットポリコレの憂鬱(やまもといちろう) | |
殺人事件の容疑者になってしまった時に聴きたいジャズアルバム(福島剛) | |
過疎化する地方でタクシーが果たす使命(宇野常寛) | |
迂闊に「学んで」はいけない–甲野善紀技と術理 2017「内腕の発見」(甲野善紀) | |
アップルの“あえて言葉にはしていない”仕掛け(本田雅一) |