釈先生と会見した後の感想文
「釈先生に田口さんのことを紹介したいので、自己紹介文を書いてもらえませんか」
甲野先生からこのように伝えられたのは、今年の4月上旬あたりだったと思います。
「往復書簡の内容をまとめたものでいいですから」と仰っていただいたのですが、どこを、どうやってまとめようか、最初は途方に暮れていたような記憶があります。
とにかく、とりあえず読んでみようと思い、自分の文章を読み返しました。
そして、甲野善紀先生という「他者」から、言葉を引き出していただいたのだということを、あらためて、本当に強く感じました。「この人に考えを聞いてもらいたい」「この人なら馬鹿にせず自分の話に耳を傾けてくれる」。その想いがなければ、私一人だけでは、絶対に同じような文章は書けなかったと思います。
実は、私は2011年に往復書簡を担当させていただくことが決まって以降、引用のために読み返すとき以外、いわゆる宗教関係の本は、ほとんど読まないようにしてきました。
というより、読めませんでした。実は今も、読めません。
それをしたら、10代の頃以上に、「言葉」によって自分が押し潰されてしまう、と思ったからです。
しかし、それでも、甲野先生とのやり取りでなら、単なる「独りよがり」には、きっとならないだろう。甲野先生に自分を「開いて」書き続けることが出来れば、「独善」に陥ることはないのではないか。
そう思い、とにかく、自分の内側から湧き出てくる言葉を、自分なりに書くということをやってきました。
それがベストだったのかは、わかりません。ですが、それ以外の方法は、私には無理でした。
今回、釈先生にお会いする際も、同じ姿勢で臨ませていただくことにしました。
当日まで、何を質問させていただくか書きだしたり、予習をしたりすることはやめました。それは、先に伺いたいことを固めてしまうと、それに囚われてしまうと思ったからでもあります。
もちろん、無意識ではいろいろなことを考えていたのだろうと思いますが、その時・その場で伺いたいと思ったことを、伺おう。
そう決めて、練心庵に赴きました。
ですので、以下に書かせていただくことは、浄土真宗の教学に詳しい方にとっては、当たり前のこともあるかと思います。
また、浄土宗と浄土真宗を、私が混同している部分もあるかもしれません。そこを先にお断りした上で、釈先生との会談について、書かせていただきます。
親鸞思想は似合わない服だった
甲野先生も書かれていましたが、釈先生に対して、私は一番初めに、もしお会いする機会があれば伺ってみたいと昔から思っていたことを伺いました。
「釈先生は、親鸞の思想に最初から共感されていたのでしょうか? それとも、最初から受け入れられていたわけではなく、葛藤や格闘がずっと続かれた時期があったのでしょうか?」
すると、釈先生から全然予想していなかった答えが返ってきました。
「私は浄土真宗のお寺に生まれ、子どもの時から親鸞の思想に触れてきましたが、ずっと、親鸞思想は「自分に合わない服」のようなものでした。合わない服を無理やり着せられながら、自分なりにそれを「着こなす」にはどうすればいいか、ずっと格闘してきたのです」
「今でも周囲を見回すと、自分より親鸞思想が似合う人、違和感なく親鸞思想を「着こなす」ことができる人がいます。そういう人を羨ましく感じることもありますが、私はそうではない。ですから、せめて信仰を共有する人・信仰に関心がある人同士の場を提供しよう。そう思い定め、今までやってきました」。
甲野先生も「衝撃を受けた」と書かれていましたが、私もこのお話を伺った際、背筋が震えるような感覚を覚えました。釈先生が様々な葛藤を抱えてこられたのではないか、そうした葛藤の中で活動されているのではないかとは、著作等を拝読した際に感じてはおりました。しかし、「浄土真宗は自分には合わない服だった」「私よりずっと似合う人を見て羨ましく感じることもある」「自分がそうではないならば、せめて、自分と同じような人や、信じるに関心のある人たちが集える場を提供しようと思った」という言葉を、釈先生が発せられるとは考えていませんでした。ありありと、釈先生の、宗教者としての覚悟と迫力に敬意と戦慄を覚えたことを、昨日のことのように思い出します。
「居つく」ことを拒否し続ける
釈先生の迫力に引き出されるように、私は今までずっと疑問に思っていたことを、いつの間にか、次々に質問していました。たとえば「人への「信頼」と神仏への「信仰」を完全に切り離すことは可能か」という問題です。
私は釈先生に伺いました。「よく「人ではなく神を信じなさい」という話がありますが、完全にそれらを切り離すこと――たとえば釈先生の中で、浄土真宗の教えそのものと、親鸞聖人への思いを完全に、100パーセント切り離しているという感覚はおありなのですか?」と。
すると釈先生からは、はっきりと次のようなお答えをいただきました。
「伝統宗教では、「人を信じる」のようなことにならないよう、幾重にもブロックがかかっています。ですから私自身、親鸞さんを拝んだり、親鸞さんへの信仰心を持っているといった「混同」をしている感覚はありません。そこには明確な境界があります。たとえば、『歎異抄』にある親鸞さんの有名な言葉に「たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。」があります。しかし、それは「法然上人を信仰していた」ということではありません。その部分の続きを読めばわかりますが、そもそも自分は地獄に行くことが決まっている(とても地獄は一定すみかぞかし)。そもそも最初から地獄へ行くことが決まっている身であると親鸞は語っています。と同時に、阿弥陀如来によって救われているということも語る。その両方を親鸞は同時に抱えたまま生きたんです」。
思想そのものに対立するものを両立させる親鸞は、常に信仰者として「揺れ続けていた」ということ。また思想だけでなく、生き方そのものが、どこかに「居つく」ことを拒否し続けるようなものだったとも釈先生は仰っていました。
越後に流刑にされた後、京都に戻ってくるのが普通なのに、関東で何十年も布教し続けた。しかも、じゃあ関東に最期までいるかというと、何十年もいた関東を去って京都に戻ってきている。まるで、どこかに居つくことを最後まで拒否し続けたような、そんな人のような気がします。」
「でも、親鸞はあれだけ文章を残しているのに、自分のことはほとんど書いていないし、未だに足跡不明な部分の方が多く、その生涯は謎に包まれたままの部分がとても多いんです。だから、親鸞が本心で何を考えていたか、書物を読んだだけでは分からないんです」。
「自分は地獄へ行く身である」という思想と、「自分は阿弥陀如来によって救われている」という思想を同時に抱えるということ。そして、生き方、生きる場所自体も晩年まで変え続けたということ。その「揺れ続ける」という問題から、更に親鸞聖人の「すっきりしない」という特徴へと、話は進んでいきました。
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