津田大介
@tsuda

津田大介のメルマガ『メディアの現場』より

チェルノブイリからフクシマへ――東浩紀が語る「福島第一原発観光地化計画」の意義

ダークツーリズムとは何か

津田:そんな思いが結集したのがこの7月に発売された『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1』なんですね。ところで、書名のタイトルに入っている「ダークツーリズム」──あまり耳慣れない単語ですが、まずはこのキーワードから説明していただけますか。

東:まず、ツーリズムというのは「観光」という意味ですよね。ダークというのは「暗い」とか「闇」という意味です。つまり、「観光」というと、普通は「明るい」「いい景色」ですとか「快適」なところにいくわけですが、ダークツーリズムの場合はむしろ悲劇の土地──アウシュビッツ [*7] とか広島 [*8] だとか、そういう場所に行く。そこで「人間っていろんな過ちを起こしたな」「ここで人が死んだり、いろんな悲劇があったんだ」と噛みしめたり、悲劇の犠牲者を追悼しながら旅をする行為をダークツーリズムと言うんですね。でも、実は日本でもダークツーリズムはいろいろなかたちで実践されているんです。たとえば修学旅行や社会科見学で広島や長崎 [*9] 、沖縄のひめゆりの塔 [*10] とかを訪れた方も多いんじゃないでしょうか。あれこそがダークツーリズムなんですね。

津田:なるほど。修学旅行や社会科見学で考えるとわかりやすいですね。最近は「スタディツアー」[*11] なんて単語もありますが、ダークツーリズムはそれらを包括する概念とも言えそうです。そして、ダークツーリズムには、災害の記憶を風化させないという目的や、負の遺産や負の記憶を継承する効果がある、と。

東:そうですね。今回の福島第一原発事故もそうですし、チェルノブイリ原発の事故もそうですが、これらの負の歴史は人類全体で継承していくべき記憶ですよね。ですが「記憶するんだ」「忘れないんだ」というお題目だけで人が動くかというとそうはいかない。実際に現地に足を運ばせる──そこに人を呼ばなければいけないし、そこに人が来て、その場所を“それなりに”楽しむといった別の付加価値がないと人は来ないんですよ。

広島の原爆ドームを訪れたことのある方は多いと思うのですが、広島観光って原爆ドームだけ見てすぐに帰るわけではないですよね。お好み焼きを食べたり、神社に行ったりそれ以外もいろいろしているはず。ひと口に悲劇を継承するといっても、追悼式典に出たり、博物館に行ってうなだれるだけじゃなくて、それにさまざまな行為──楽しい「観光」も絡めて、楽しみのなかに学びを入れていくのがダークツーリズムだと思うんです。日本は今後福島第一原発事故の記憶や教訓を受け継いでいかなければいけないわけですが、その記憶や教訓を受け継いでいく際にダークツーリズムの考え方はひとつのヒントになるなと思っています。

 

日本人の知らないチェルノブイリ

津田:東さんがチェルノブイリに行ったのは、まさにチェルノブイリ原発が新たなダークツーリズムスポットとして注目され始めている事実があったからだと思うのですが、一方、日本人のわれわれからすると「27年前にチェルノブイリ原発が事故を起こしたよね」「後遺症とか大変なんだよね」ということは教科書レベルでうっすら頭のなかにあるものの、実際に今のチェルノブイリ原発周辺がどのようになっているのかはまったく知らない。先ほど「現実はいろいろ複雑なもの」という発言がありましたが、具体的に複雑さを示すエピソードをいくつか教えていただければ。

東:実際に行くとわかるのですが、チェルノブイリの事故が深刻であることは疑いがない。今でも後遺症で苦しんでいる方々もいるし、廃炉もまだまともに始まっていないわけですから。このことは絶対に抑えておかないといけない「事実」です。しかし、だからといってチェルノブイリが全部「死の町」になっているかといえば、そうではない。これもまた「事実」なんです。実はチェルノブイリ原発は事故で廃墟のようになっているのかと思いきや、発電所そのものはまだ現役の施設として「動いて」いる。といっても「発電」はしていません。原子炉は2000年以降すべて止められているのですが、実はチェルノブイリ原発はウクライナ全土に電気を送る電力網のハブになっていて、送配電の機能は今でも残っているんですね。

チェルノブイリ原発では廃炉作業も含めて、数千人の方がまだ働いている。2年前までは原発事故前からずっと働いているという職員もいたし、原発事故直後からずっと働き続けてる職員の方もいる。原発事故を起こしたからといってそこが死の町になってすべてが廃棄されるわけではない──そんな当たり前の現実を、現地に行くことで確認できたわけです。実際に作業員とも話しましたが、彼らがすごく暗い顔で放射線防護服を着て怯えながら作業をしているかかというと、全然そんなことではないんですね。鼻歌を歌ったり、ちょっとふざけあいながら仕事をしていたりする。人間が仕事をしているから当たり前の話なんですが、そういう光景を目の当たりにすると、普通に僕たちが「チェルノブイリ」って単語で想起されるイメージとはずいぶん違うよねと思いました。

津田:チェルノブイリ原発事故は福島第一原発事故よりも多くの放射性物質を拡散したと言われています。実際に行って見て原発周辺の放射線量はどうだったんでしょうか。

東:驚くほど低かったですね。原発敷地内に入ると3~5マイクロシーベルト毎時と多少高くなりますが、立入禁止区域内の放射線量は約0.1から0.2マイクロシーベルト毎時──東京や関東北部とほとんど変わらない線量でした [*12]

チェルノブイリの立入禁止区域の空間放射線量が東京と同じくらいだというのは、実は日本でも言われている話なんです。ただそれが日本で言われるときは「だから東京はすごく危険だ」「東京はチェルノブイリと同じくらい汚染されている」という文脈で使われたりもする [*13] 。でも、僕らが実際にチェルノブイリに行って感じたのは「あれだけ悲惨な事故があったチェルノブイリですら27年も経つと除染が進み、半減期によって全体的に自然減衰してここまで低くなったんだ」ということなんですね。同じ事実でもどちらから切り取るかによって与える印象がまったく違う。

津田:それは日本におけるチェルノブイリ関連の情報が偏っているということなんでしょうか。

東:チェルノブイリに対する日本人の見方はひとつの方向性をもっているんですね。なぜなら、先ほども言ったように「チェルノブイリは悲惨な事故が起きて今でも後遺症で苦しんでいる人がいる。甲状腺がんがこれだけ発生している」──そういうタイプの報道がすごく多いから。われわれが参加した観光ツアーの主催者で、事故当時原発のすぐそばの町・プリピャチに住んでいたアレクサンドル・シロタさんはいまも事故による後遺症で苦しんでいらっしゃいます。でも同時に、彼はある程度元気にNPOの仕事を行い、ツアーのガイドもやっている。そのあたりを二重に見ていかないといけない。インタビューで彼は「今でも後遺症に苦しんでいます、ウクライナ政府はまったく何もやってくれなかった」と言ってました。われわれが本をつくる際、その部分だけを切り取ってインタビュー記事にすることもできる。実際にそういう趣旨の発言をしていたわけですからね。でも、そういう切り取り方をすると、チェルノブイリへの見方が一面的になる。

今回思想家の僕とジャーナリストの津田さん、そして社会学者の開沼博さん──今までの「チェルノブイリ報道」とはまったく無関係の人間がチェルノブイリに入った。この「無関係」で「素人」の3人が行ったおかげで従来のチェルノブイリ報道とはかなり違う部分を切り取ることができた。とにかく、そこの部分を見てもらいたいですね。

津田:原発から約15kmくらい南にあるチェルノブイリ市に「ニガヨモギの星公園」[*14] という原発事故をモチーフにした慰霊のための公園がつくられていましたね。あれは今回の取材のなかでも大きな驚きのひとつだったんですが、それについて説明していただけますか。

東:チェルノブイリ原発事故から25年たった2011年に福島第一原発が事故を起こすわけですが、その事故直後にニガヨモギの星公園がオープンしたんです。そこは1年に1回、チェルノブイリ原発が事故を起こした4月26日に被災者たちが集まって式典をやったりする場所としてつくられ、今でも拡張工事中なんですね。僕らはニガヨモギの星公園と、キエフにあるチェルノブイリ博物館 [*15] の両方を設計したデザイナーのアナトーリ・ハイダマカさんにインタビューしたのですが、彼は「記憶を残す」ことにとても前向きで、公園をつくることも「いいこと」だと思っているんですね。公園には事故によって強制避難させられて住めなくなってしまった村の名前を掲げたプレートが70個くらいずらっと並んでいる [*16] んですが、それを見た僕らが「なくなってしまった村の名前を掲げると、元の住民の方からトラウマを呼び覚ます、傷つくからやめてくれ」というクレームはないんですか? と聞いたら「あるわけないじゃないか」と。「こういうかたちで村の名前が残ることを彼らは喜んでいるし、式典や一時立ち入りしたときに自分が住んでいた村のプレートの前に花を捧げるんだ」と言うんですね。それ自体も貴重な経験でしたが、僕が驚いたのは「ニガヨモギの星公園」でネットや新聞記事データベースを検索しても日本ではほとんど紹介されてないことなんですよ。この公園がつくられたのは福島第一原発事故直後で、日本でも事故の引き合いとしてチェルノブイリに関する報道がたくさん出てきたんですが、この公園についての情報は皆無だった。そういう意味でも、チェルノブイリ報道には特定の傾向性があったことが今回の取材でよくわかりました。

津田:放射能による健康被害が重要なのはもちろんですけど、それ以外の現実も幅広く見ていかないとそこで起きていることの本質はつかめないよ、と。

東:勘違いしていただきたくないので繰り返しますが、チェルノブイリの事故が悲惨で、いまも後遺症に苦しんでいる方々がいて、甲状腺ガンの発生率が上がり、健康被害が起きているというのは事実です。しかし、そうした悲劇があっても、その場所で人は生きていくんですね。そのときに人は何を考えたのか、どのように事故のトラウマを受け入れていくのか、ということにも焦点を当てないといけない。ウクライナはあれだけの事故を起こしましたが、それでも原発依存率は50%もあって [*17] 、簡単に脱原発なんてできない。僕は脱原発すべきという立場ですが、日本もいまの政治状況や核燃料サイクル、廃棄物の問題を考慮すると、そう簡単に脱原発はできないと思っています [*18] 。その点で日本とウクライナは似ているんですね。ウクライナ人は脳天気だからあれだけの事故が起こっても原発を推進している──そんな単純な構造ではないんです。彼らはロシアとの政治的な対立関係 [*19] やエネルギー安全保障や経済的な問題などの葛藤があって、推進せざるを得ない立場になっている。今回取材したチェルノブイリ博物館の副館長はいみじくもこんなことを言ってました。「ウクライナという国は、一方では原発に頼らざるを得ない現実があるが、他方ではやはりあの事故はとても悲惨で、私は原子力というものは非常に危険な存在と思っている」と。彼らはその相反する認識をすりあわせながら生きているんですね。それは日本人も恐らく今後考えていかなければいけない現実でしょう。その認識を学ぶ意味でも、ウクライナ人たちのインタビューを読んでいただきたいですね。

津田:今回の取材では実際に事故を起こした発電所のなかに入って原子炉の近くまで行きましたよね。原発内ではどのようなことを感じましたか。

東:チェルノブイリ原発は津波と地震で被害を受けた福島第一原発とは違って、事故を起こしたのが4号機だけだったので、ほかの部分は無傷なんですよ。先ほども言いましたが、ウクライナ全土に電力を送る送電のハブとしてはいまでも現役の施設であるわけです。事故前と事故後でくっきり分かれると僕たちはイメージしがちなんですが、全然そうじゃない。事故後からずっと働いている人もいれば建物も同じ。そして原発内に入って驚くのは放射線量が意外に低いことです。僕たちは石棺の近く──「この壁の向こうは石棺です」というところ [*20] まで行っているんです。おそらく直線距離的に数メートル。そこは11マイクロシーベルト毎時程度と高かった [*21] 。しかし、そこに滞在するのは1~2分なので、健康に被害があるようなものではない。そういう場所で作業員は働いている。ガチガチの防護服を着るわけでもなく、給食の白衣みたいなものを着て。

津田:原子炉制御室にも入りましたね。

東:僕らが見学した2号機の原子炉制御室 [*22] は事故を起こした4号機と同じデザインなんですが、僕はこれは産業遺産として非常に重要なものだと思いました。旧ソ連の科学に対する信仰と自信に裏打ちされたもの。原子力という危険なものをかつて人類は制御できると思っていた──その夢と誇りと傲慢さみたいなものが、制御盤のなかに凝縮されている。だからデザインとしてすごく美しいです。映画のセットみたいでした。こうしたものを遺産として残していくのは非常に重要な意味があると思います。

津田:一方、原発から2kmほど離れた原発作業員たちの町・プリピャチにも行ったわけですが、プリピャチの印象はどうでしたか。

東:プリピャチは「廃墟」としてはすごく有名な場所なんですね。事故を起こした1986年で時が止まっているので、旧ソ連時代の町並みがそのまま「フリーズドライ」されて残っている。日本で言えば『3丁目の夕日』みたいなものですね。そういうこともあって、ロシア人が観光地として訪れているみたいです。ノスタルジーを刺激するんでしょうね。行く前はプリピャチをすごく楽しみにしていたんですが、僕の個人的な印象では原発のほうがはるかにインパクトが大きかったです。まぁ廃墟は廃墟に過ぎないという感じですね。廃墟の中に朽ち果てた観覧車 [*23] があって。人々がここで生活していたのがすべて空っぽになってしまって、まさに原発事故の悲劇を体現しているような雰囲気。その観覧車も現在のチェルノブイリやプリピャチの町を象徴する存在としてよく映像に出てきますが、僕はそのゴーストタウンよりもいまだチェルノブイリが生きていることに感銘を受けたし、新鮮な驚きがありました。つまり、プリピャチの廃墟は「僕たちが予想していたチェルノブイリ」なんですよ。けれども原発のなかでは人が鼻歌を歌いながら歩いているし、そこには事故直後から働いている人がいて、そのことを誇りに思っている。僕にとって予想外のことでした。

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津田大介
ジャーナリスト/メディア・アクティビスト。1973年生まれ。東京都出身。早稲田大学社会科学部卒。早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコース非常勤講師。一般社団法人インターネットユーザー協会代表理事。J-WAVE『JAM THE WORLD』火曜日ナビゲーター。IT・ネットサービスやネットカルチャー、ネットジャーナリズム、著作権問題、コンテンツビジネス論などを専門分野に執筆活動を行う。ネットニュースメディア「ナタリー」の設立・運営にも携わる。主な著書に『Twitter社会論』(洋泉社)、『未来型サバイバル音楽論』(中央公論新社)など。

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