甲野善紀
@shouseikan

対話・狭霧の彼方に--甲野善紀×田口慎也往復書簡集(2)

人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である

 

背教者

 

宇佐美は、さりげなく語り続けた。

「立替え立直しの危機を一刻も早く世界の人類に知らさねばならぬと言う義務感が激しくて、布教師は幾らあっても足りはしません。私も布教に出ることになり、インテリだから都会がよかろうと言うので、東京を担当させられました。宮飼さんがいらっしゃる前、昨年(大正五年)の春のことでした。ご承知のように、大本で布教に出る時の服装は、羽織・袴はよいとして、菅笠に茣蓙蓑、『直霊軍』と染め抜いた襷、おまけに長髪を藁しべで結んでいるのですから、どこへ行っても目立ちますよ。今なら恥ずかしくてたまりませんが、あの頃は選ばれた人のような誇りで、薄い胸を張っていたものです。奇抜な服装の効果はてきめんでしたね。東海道の車中から早くも質問攻めで、初陣に近い私は、その矛先を転ずるだけで精一杯だ。東京では、池袋の尾寺家が宿舎にあてられ、布教の便をはかってくれました。尾寺家の応接間には、もう四、五人の知人が集められていました。車中ですでに自分の勉強不足を痛感していましたから、下手な理屈をこね回して揚げ足とられまいと、弱気でしたよ。四、五枚のお筆先を回覧してもらっても、あの筆跡でしょう、誰も妙な顔をするだけで読めはしません」

「そ、そ、そうでしょうなあ」

「私は躍起になって説明したんです。『今にとうどの鳥がとんできて火の雨を降らし焼け野原になる。東京は元の武蔵野になる、と書いてあります。とうどの鳥というのは、唐土…つまり外国、もしかしたら盗土で国を奪おうとする鳥、飛行機のことじゃないかと大本では解いています。ライト兄弟の飛行機の発明が明治三十六年ですが、それより前に出た筆先だから、こういう表現になったのでしょう。食う物も、着る物もなくなる時が来るそうです。ぎりぎり一杯の時になると、兵隊の撃つ弾までなくなると、教祖さんが言うとられます。元寇のように外国の兵隊が上陸してくると、外国魂になっている者は、みんなあっち方につきます。ここまで来んと、日本人の目がさめんと言われます。けれどそうなってはもう遅いので、大本では、気もないうちに知らせて日本人民の覚醒を叫んでいるのです』そんなことを、冷汗を流し流し喋りましたよ」

「そ、それ冷汗もんでしょう。お、お察しします。で、あ、相手方は…」

「やはり黙っちゃいません。筆先にのっている予言が正しいと、誰が証明できるのか…」

「し、然り…」

「そんな恐ろしい予言を流して実現しない時、誰が責任とるか」

「も、もっともです」

「教祖に神がかかって書かせたのなら、何故もっと読みやすい上手な字が書けないのか…」

「は、は、は、…同感ですなあ」

宮飼が媚びるような笑いを示したが、宇佐美は微笑もしなかった。

「私には相手に納得の行く説明ができなかった。私たちの教科書は筆先だけですし、それを拝読する人によって解釈がまちまちでしょう。でもこの日は、尾寺家に好意を持つ人たちが集まったのですから、私の至らぬ話も若輩のせいしにして暖かく見逃してくれました。大変なのは、その翌日からです。何せ東京は広い」

「た、丹波の、や、山奥とはちがいますとも…」

「市内地図を片手に、飯森さんからもらった三十枚ほどの紹介名刺を頼って訪ねて行ったのですが、みじめなものでした。三越の横の細道を入った所でしたが、村田通治さんという下駄の修理屋さんを訪ねた時のことです。炊事場も座敷もない、仕事場も寝室も応接間も一つの部屋という、貧乏暮らしです。そこに奥さんが病気で寝ており、五つ、六つの子供が傍に坐って板片を積んだり崩したりしていました。村田さんは前垂れをかけて、下駄の歯入れの最中でした。私が飯森さんの紹介状を見せ来意を告げると、子供に耳打ちして外へ出し、快く坐る場所を与えてくれたのです。村田家は父祖代々の酒造家で地方で有数の資産家だったそうですが、火事を出したのが元で凋落したんですね。坊ちゃん育ちの村田さんは、さてと言って生活の方法が分からず、立ち上がる力もなかったんでしょう。やむなく東京に出て、下駄の修理でやっと糊口をしのいでいる有様。そんな愚痴を聞いていると、子供が帰って来て、『お父さん、ぼく、いらないから、お客さんの分だけ買ってきたよ』と言って、焼芋包みと一銭玉を差し出すのです。『坊主まで親の貧乏に同情しやがって…』村田さんは声をつまらせ、その一銭玉をしまいました。目の前に出された二切れの焼芋を、私は茫然と眺めるだけでした」

「じ、実際、び、び、貧乏ほどつらいことはありませんからね」

「耐乏生活は大本だけの一枚看板じゃあなかったんですよ。東京のど真ん中、華やかな流行の巷三越の軒下にさえこんな惨めな暮らしがあるんだ。彼は単刀直入に聞くんです。『死後の世界よりも、今をどうやって生きのびようかと苦しんでいる人たちの方が多いのですよ。人間界を救うという真の宗教ならば、物心両面を充足されるものでないと意味がない。観念の遊戯だけで事足りるような信仰なら、持ってもつまりませんから。大本はそういう宗教でしょうか』私は返事に迷いました。『今までは上よくて、下のいけぬ世、新たまりて世をけして、世界中均すぞよ』というお筆先も確かに胸に浮かんだのですが、目前のなまの生活苦に圧倒されて、とうとう口に出す勇気のないまま、逃げるように辞したんです。三越の前までくると、くそっと、私は菅笠と茣蓙蓑を大地に叩きつけてしまった…」

「そ、そう言えば今年になって『大正維新論』なんて言うのが出ましたよ。私有財産はみんな、て、天に奉還して、一人の遊民も貧乏人もない世にするなんて、きょ、共産党まがいのホラを吹いてますがね」

「ほう、そうですか。どんなものであれ、当時はそう言った具体論さえなかったんだから…行く先々で、私は自分の未熟さをいやと言うほど味わわされ、信仰が足元からぐらつくのです。丹波の山の中から出てくると、めまぐるしい都会に住む人たちとは、気持の上で大きな隔たりがあるのを、切実に感じました。世間は甘くない。誰一人、皇道大本の生ぬるい紹介ぐらいで満足してくれやしません。神道を国教として唱導しようとするもの、仏教の隆盛を願うもの、既成宗教にあき足らず新興宗教の出現を待望するものと、逆に千差万別の声に聞かされて、自分の視野の狭さを嘆くばかりです。これで人を驚かすだけの霊力でもあれば、また活路もひらけたんでしょうがね。行く先々で新しい壁にぶつかり、しまいには日比谷公園や上野公園のベンチに坐って長い春日を呆然と過ごしていました…」

「そ、そ、それでも宇佐美さんの東京宣教は、ず、ずいぶん評判が、た、高かったじゃありませんか」

宇佐美は血色のない顔に浮かぶ汗の玉を急いで拭った。

「そうそう、それなんですよ。私にはその評判が、かえって仇でした。重たくてがまんできなかった。今だから言えるんですけど…最後に残った一枚の紹介名刺、それが飯森さんと同期の海軍主計中佐関芳三さんのなんです。長い間、懐中に残っていたのは、その相手が一番強敵に思えたからなんですよ。ためらった末、とうとう腰を上げて、上野公園を北に出はずれた所にある、いかめしい門構えの邸宅の前に立ちました。私の通された部屋は、関さんの書斎でした。左右両側の本棚には、ぎっしり一杯の神道関係書が詰められ、畳の上にも書籍が散乱していました。関さんはその書籍を積み上げて、私の坐る場所をあけてくれました。退役してからは暇を利用して神道を研究している篤学の師と、聞いていた通りです。初対面の簡単な挨拶がすむと、私は今までしてきたと同じように、受身の姿勢で相手の質問を待ちました。ところが関さんは黙っているのです。考えて見れば、神道に造詣の深い関さんが、私ごとき若僧に質問する気など起こらなかったのは当然ですよね。むしろ関さんの方こそ、私の質問を待っていたのかも知れません。五分、十分…だんまりが続きました。初対面の相手と無言の対座をするほど、息の詰まることはありません。今思っても寒気がする…」

「め、め、目を見合ってですか」

「私は相手の面に目をあててはいましたが、その実まともに見てたわけではありません。まぶしい光に半分まぶたを伏せた感じですわ。三十分もたった頃、関さんは足を組み替えました。それからは、しきりに右に左に膝を崩します。私は、伊勢神宮宿衛で六時間連続正座の経験があったくらいですから、ちっとも苦にならんのですわ。最初に着座したままの姿勢です。けれど、精神的な苦しさと言ったらありません。途中で喋り出すには、タイミングがずれ過ぎています。それに喉がひっついて声なんか出ない。一時間も過ぎた頃、どうにもたまらなくなって、恥も外聞もなく立ち上がった。すると、関さんが、初めて言葉をかけてくれたんだ。『ちょっと待ってくれ。わしの負けだよ。今まで随分と沢山の人に会ったが、今日ほど感激したことはないね。君のものに動じない態度といい、一時間余りぴりりとも膝を崩さないその姿勢に、わしは完全に兜を脱いだ。口に千万言叫ぼうとも、体に備えがなかったらだめだ。しかし君のような若者をここまで育てた大本も、たいしたものだな。わしを一緒に大本へ連れて行ってくれ給え』…」

「さ、錯覚だ…」

「錯覚です…完全に…」

宇佐美がちょっと言葉を止めると、宮飼は皮肉めいた口調で言った。

「そ、そう言うわけで、せ、関さんが入信なさったんですか。お、お、大本では、それこそ、か、か、神のお仕組ということになるのでしょう」

「関さんをお連れして帰綾した時は、ちょうど春の大祭でした。大祭後、金竜殿で講演会があり、関さんもその弁士の一人でした。講演会の後で余興があって、関さんは剣舞を舞われましたが、誤って燭台を切り、舞台が油でべたべたになって大騒ぎしたのも今では懐かしい思い出です。とにかく私の上京は失敗の連続で、大本の恥をさらしに出たようなものでしたが、関さんがどんなふうに話されたのか、会う人ごとに『大成功だったそうですね』と誉められて…」

 

※この記事は甲野善紀メールマガジン「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」 2011年11月21日,12月05日 Vol.016-017 に掲載された記事を編集・再録したものです。

 

 

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甲野善紀
こうの・よしのり 1949年東京生まれ。武術研究家。武術を通じて「人間にとっての自然」を探求しようと、78年に松聲館道場を起こし、技と術理を研究。99年頃からは武術に限らず、さまざまなスポーツへの応用に成果を得る。介護や楽器演奏、教育などの分野からの関心も高い。著書『剣の精神誌』『古武術からの発想』、共著『身体から革命を起こす』など多数。

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