小寺信良のメルマガ『金曜ランチボックス』より

就活生へあまりアテにならないアドバイスをしてみる

30年前の就活

僕が就職したのはもう29年も前で、今とは全然社会構造が違う時代だった。しかも僕は専門学校卒で技術職だったので、求人の仕組みからして全然違っていた。

というのも、昔の専門学校には、だいたい会社のほうから求人が来たのである。「どこの会社で何職を何名募集」的な求人情報が廊下に張り出されるので、それを見ておのおの勝手に試験を受けに行く。

僕はそういうものだということを知らなかったので、卒業が迫った2月ぐらいまではぼんやりしていたのだが、担任の先生が「こでらくーん、そろそろどこか試験受けに行かないとなくなっちゃうよー」と言うので、一番求人枠が多かったビデオ技術者募集の会社に試験を受けにいった。それは希望した職種ではなかったが、田舎から出てきて一人暮らしの身では、ここで就職できなければ実家に帰るしかない。とりあえず社会に潜り込めばあとはなんとかなるだろう、という程度の考えだった。

僕は学生時代、レコーディングエンジニアになるべく音響工学を勉強をしていたのだが、僕が就職した1984年というのは、レコード業界でまったく求人がない、最悪の年だった。

というのも、当時は1980年に創業した「黎紅堂」「友&愛」をはじめとするレンタルレコードが大きな勢力をふるっていた。もちろん自分らもその恩恵を受けたクチである。しかしそれがゆえに音楽業界では収益が激減して、邦楽業界はガタガタだったのだ。著作権法が改正されて貸与権と報酬請求権が認められ、現在のように音楽業界がレンタル事業者から著作権料の分配を受けるようになったのは、1984年。ちょうど僕が就職した年のことで、それまで音楽業界は「貸され損」だったのである。

ちなみに「レンタルレコード」という業態を考案したのは、当時立教大学の学生であった大浦清一氏である。まさに学生ベンチャーが業界をひっくり返したのだが、そのあおりで音楽業界をめざす学生が就職できないという、なんとも皮肉なできごとが起こったわけである。

入社試験なるものを受けたのはその時1回限りで、そのまま合格して入社しまったので、「就職戦線が厳しかった」という実感はまるでない。しかも、実は僕が入った映像業界というのは当時、破竹の勢いで拡大していた業界だったのである。

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